ピチピチギチギチラバースキン地獄にどっぷり填ったchikaですが、業務用でも一つだけ被るのに恥ずかしい全頭マスクがあります。 それはWhore's maskと呼ばれる女陰のビラニラを開口部にマウントしたしたもの。Wonderfully bizarre mask with eye, nose and mouth openings, decorated with dirty words of your choice. Laced in the back for perfectly tight fit. 模造女陰付きラテックスパンティを穿かせて上げるだけでチンポをビンビンにしちゃうM男君とはまったく逆の精神状態になります(笑)。 殿方はこのマスクを被ったchikaがフェラすると視覚だけで逝っちゃうといいますが、chikaはホントにこのマスク被るの恥ずかしいです。だってchikaのアニマは「去勢されていない女性器なし女」ですもん。
「仮面は拷問か」ってゆー興味深い課題提起が水野優様のブログPretty Mask BlolinGual(近日閉鎖再統合)でエントリーされていました。以下原文のまま
紅山雪夫『ドイツものしり紀行』の54ページにたまたま、ローテンブルクの中世刑罰博物館にある仮面のことが書かれているのを見つけたので、以下に引用します。 「さまざまの奇怪な仮面は、割に軽い(?)罪を犯した者にかぶらせ、手かせ足かせをはめて広場でさらしものにするのに使った。好奇心が強くておしゃべりが過ぎた女性にかぶらせた鉄製の仮面には、大きな耳と舌が付いている。…中世人の感覚は我々とまったく違っていたことが分かる。」 私には、中世の感覚が現代と全く違うとは思えません。一風変わっていても、現代でも相当恥ずかしい刑罰だと容易に想像できます。社会的文化的な意味はずいぶん違うでしょうから、いずれ拷問についての専門書にあたって考えましょう。 着ぐるみは別としても、フィメールマスクは(特に海外では)ボンデージやSM愛好者から派生してきたものでしょうから、いろいろと共通点が見つけられそうです。今回は風呂敷を広げただけでまとめがないのですが、
大風呂敷を広げたと仰るので、chikaもその広げられた風呂敷の中で少し遊んでみようかと思います。(ラバーシートを広げたベッドの上でスッパで転げ回るのも好きですが) 装う人の本質から離れた(あるいは本質を誇張した)シンボリックな装飾を、無理に装着させて「罰」とする行為と言えば、最近ではタイの悪徳警官にキティちゃん腕章を付けさせるという試みを思いだしますね。 実際には商標の問題でこのプランは頓挫したみたいだけど、「代えってキティちゃんを付けたがるんじゃないか」とか「大の大人がキティちゃんを付けされられんだ、恥ずかしくて確かに効果は上がるよ」みたいな感じで論議を呼んだそうです。 chika的にはマッチョなタイ男性があのタイトなポリスユニホーム着て二の腕にキティちゃん決めてたら格好いい~って胸がときめいちゃいますが(笑)。 でもキティちゃん腕章は商品に貼る「商標」みたいなものなので、本人の顔を覆ってしまう仮面とは意味が違うようですね。 で水野様が引っかかっておられた「中世の人間であっても仮面については現代人と同じ感覚だった」のではないかという指摘なんですが、chikaは倶楽部で「自我というものはかなり近代的な心のありようなんだ」と聞いた事があって吃驚した事があります。 最もこの話のソース源はプレイで一度しかお相手をした事のない「センセー」と、談話室で他の女の子達とピンクな話をしてた最中の話なので精密じゃありませんが。 「自意識過剰」ってゆー言葉があるぐらいだから、自分を意識する心の働きには、個人差があるのは理解していたのですが、現代人にとって「自意識がない」なんて想像もつかないですよね。
映画なんかではギロチンシーンの処刑人は頭巾とかSMグッズのレザーマスク(笑)みたいなのを被ってたりしますが、実際にはどうだったんでしょうね。 映画の演出で考えればマスクで顔を覆っている方が猟奇的な雰囲気とか残虐性がでるような気もするし、、、それとか逆恨みを避ける為とか、嫌な仕事だったので顔を隠したとか。でもこれなんかは、いかにも後付の理由ぽいですよね。 ヨーロッパ社会で、人々はキリスト教の強い支配と、封建的な身分関係の中にいて、社会や神から自由で独立した「わたし」を考えるなんて思いもよらない事だったらしいです。それがようやく近代に入って、自我というものがクローズアップされて来たんですね。 近代社会を構成するのは、一人一人の市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想で、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのはその思想自体であり、日本などはそれよりもっと遅れて、しかも「近代的自我」を移植する形で、現代に至っているというわけです。 日本の時代劇を見てて、一番不思議だったのは「切腹」でした。自殺の方法なんかをみてると共通してるのは「死への肉体的な恐怖」をいかに緩和するかを工夫してるって事ですよね。 極端な例になると、死が与えるであろう肉体的な苦痛を受け入れることが出来なくて、他人に「自分を殺して欲しい」などと依頼したりするぐらいだから。 ところが「切腹」はこれと真逆の事をやる。まあ瞬時に死を与えてくれる介錯人という存在があった場合もあるだろうけど、それにしても自分の意志で自分の肉体を刃を使って死に至らせるというのは相当な精神力、あるいはそれをならしめる程の外にあって己の価値観を支配するものが必要なはず。 「切腹」、、これは近代においては生半可な近代的自我の持ち主では無理な所行なんかじゃないかと。 (そういう意味では三島由紀夫って色々な意味で凄い人ですね) まあこの「切腹」も現代では、その精神性と様式美、グロテスク美が奇妙に変形して「切腹フェチ」などという分野を生み出していますが。 紅山雪夫氏が言う「中世人の感覚は我々とまったく違っていた」は、この「近代的自我」との隔たりを捉えておられるのではないかと勝手に想像しています。 だからこの仮面は、装着者(絶対的権力者)側の論理とすれば、辱めの要素より、神の教えに背いた者への「刻印」めいた意味合いが強かったのかも知れませんね。 今なら容易にSM的要素に転化しそうな「対人関係上の辱め」としての仮面刑なんだけれど、当時はこれで充分「判決文」的に成立していたのではないかと。
それにしても「好奇心が強くておしゃべりが過ぎた女性にかぶらせた鉄製の仮面には、大きな耳と舌が付いている。」これって想像力をかき立てられますね。 実物の写真を見るまでは(近代的自我)の芽生えた現代人らしく色々な妄想を抱きました(笑)。 「性的欲求が強くて性冒険が過ぎた○○に被せられた仮面には、、、」まあこの形が具体的に展開されているのが冒頭にあげたMarquisなんかのラバーマスクなんですが。
NEWHALF×SM 凛
真夏の暑い日に彼女は、こう言った「私を縛ってくれますか…?」どこまで本気なのか?本当のMとして私に追従して行けるのか?不安を抱えながら、撮影当日を迎えた。彼女は、いつもと変わらぬ笑顔でやってきた…私の心配を気にもせず、強制自慰・縛りから、初浣腸。2Lの健康飲料をシリンダーで注入され、プラグでアナルに栓をする…彼女の顔が苦悶してゆく。
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